昭和54年05月14日 朝の御理解
御理解 題71節
「ここへは信心のけいこをしに来るのである。よくけいこをして帰れ。夜夜中、どういうことがないとも限らぬ。おかげはわがうちで受けよ。子供がある者や日庸取りは出て来るわけにはゆかぬ。病人があったりすれば、捨てておいて参って来ることはできぬ。まめな時ここへ参って信心のけいこをしておけ。」
ただ御参りをして御教えを頂いておると言う事だけが、信心の稽古ではない。お話しを聞く稽古、拝む稽古ならそれでいいでしょう。けれどもそれを、参ることの修行もお話しを頂くことの姿勢も、信心も分らして貰う信心の稽古でなからなければならんのですから、毎日参りよるから信心の稽古が出来よるとは言えません。ですから本気でその教えを頂き、それが日々の生活の中に入ってくると言うか。その教えを芯にしての日々でなからんと信心が血に肉になりません。只巧者になると言う事にしかなりません。
昨日は十三日会で、何か合楽の建設が始まりましたら。一足飛びに何かこう一回り合楽の信心が大きくなったな、そんな感じがする十三日会でしたね。参拝者ももう九州全県から集まって来てました。宮崎、大分あたりの御信者が皆んな参って来ておりました。それでまぁ大体ま各県代表の方達が発表致しておりましたが、何か一つの言うならスケールが変わったと、中で踊っている人達も、合楽の小さい範囲の御信者さんと言った様なものではなくて、何かそんな感じのする十三日会でした。
もういよいよ合楽の建設が始まり一つの、私は昨日十三日会の半ばで、十分間休みます時にちょっと裏まで行きましたら、泉水の前でここの丸少の方達が、何の曲か知りませんけれども、見事にその演奏の稽古をやってました。それを聞きながら心に感じた事は、本当に「合楽行進曲だ」と言った様な感じがしたんです。確かにそういう合楽全体に信者打って一丸と言った様な、事にならなければならないような、そう言うリズムに乗らなければならない様な感じを受けました。
それで私共の信心の稽古と言う事が、なら合楽建設を中心にするところの稽古、言うならば御造営が信心の御造営を、先ずと言う心掛けにならなければならない。信心を通しての建設を通しての信心の稽古と、こう言うチャンスはまたとそういつもあるものではない。そこに私は焦点を置いて、合楽の全信奉者が打って一丸となっての、御建設であったら有り難い御建設が成就することであろうと、来年三月が竣工と言う事ですが、本当に感動の竣工であろう。
その竣工がそのまま私共の信心が一段、一回りと大きくなる事を感じます。どうでしょうか、皆さん合楽建設の言うならば、その御造営が自分の信心の御造営として頂き、自分一家の信心の造営として、ここに本気で稽古の焦点を置いたら、良い稽古が出来ると思いますよね。それにはやはり稽古の一つの願目は、御造営と言う事でしょうけれども、その根本になるものがしっかりしなければならないと言う事です。
昨日十三日会の御祈念を終わって皆さんに聞いて戴いた、そのちょぅど、昨日十三日会に参拝してきておる、四、五人の方がここでお届けをした事の内容を芯にして、昨日お話し聞いて頂いたんですけれども、後から思うてみると考えてみると、これが信心の稽古の芯になり、土台になり、これだけは分っておかなければならないな、と言う様な事ばっかりだった様に思うのです。
とにかく信心と言うのが、結局有り難くならせて頂く稽古だと。だから有り難くなれない様な事でも、本当言うたらお礼を申し上げなければならない、神愛の満ちたものでありますからね。ところが私共はやっぱり痛ければ痛い、痒ければ痒い事だけしか頭にない。そこんところを昨日、文男先生が申しておりましたですね。二、三ケ月身体の調子が悪くて寝たり起きたりであったですから、それを楽しう愉快にと言われて、今から考えてみると、はぁ三ケ月の間マイナスになったとは一つも思わなかった。
確かに楽しい愉快なものであった。これは私が今から三十年前の事を思うて、もうあれ程の難儀はまたなかろうと思う様な難儀の中に、しかし本当に難儀を感じていなかったと言う事実を改めて思うのです。だから何がそう信心を有り難いものにしたか、楽しいものに。今の合楽理念のいわゆる、根底ともなるような信心が、あの時代に出来たんだと思うんですけれども、結局は神様の働きを信じたからと言う事になるのです。
それでその神様の働きがどういう形で、どう言う風に現れてくるかということを、日田のあの梅山先生の奥さんが頂いておる様に、お知らせに三本鍬を頂いた。今先生はあぁして一年間、学院に参りまして中心になる者が欠けた。お仕事もだから思わしくない。何やらかにやらこの頃から親戚会議を開いて、今後の生き方の上にどう言う風にするか、と言うて子供達が皆集まって、そのう話し合いがあった程の中に、様々な難儀な問題がそれに入って来ておる。
そう言う中で頂いておる事が本当に梅山のうえに、言うならば只信心を頂いておったと言うことは、おかげを頂いてきたと言う事だけであった。まぁはっきり言えば信心も頂いておったでしょうけれども、まずおかげを頂いてきた。それが言うならば長男である梅山先生がお道の教師でもお取り立て頂こうと言う事になったところから、梅山一家にいよいよ信心を神様が求められる事になった。
そこで言うならば、それこそ一人でに物が出来る様な、おかげを頂く事のために、先ず言うならば固い田地とでも申しましょうかね、を三本鍬でうちおこさなければならないと言うところに現在梅山家があるんだと。これは私は修行中に教祖の奥城で頂いた、この四神様の御修行の時には、ひどいもうそれこそ、三本鍬でうちおこされる様な、その時期を通らせてもらうと、今度は教祖様が平鍬で綺麗に、畝を作って仕上げて下さる。そこにいわゆるそれこそ難儀な中に喜びを感じれる様な種がまかれる。
その種が見事に芽を出す。開花する実が稔ると言うのか、ま今日の合楽でございましょうけれどもね。その三本鍬で打ち耕される時には、大変きついけども、それはもう本当に神愛の現れであると言う事なのです。人が助かる、または一人でに物が出来る様なおかげを頂くためには、ここのところの耕しがどうでも出来ないけん。それを気づかずに只難儀、難儀そこから抜け出たいばっかりの信心では、信心を頂くと言う事にはならぬ。おかげおかげを求めての事ですからね。
そしてなら次に頂いておるのが、自分のお初穂を奉らせてもらう。梅山紀子と言うんですけども、梅山紀子が梅山幸子としか読めないと言う御心眼を頂かれたね。それこそ梅山と言えば修行の事でしょうけれども、どういう修行かと言うと、言うならば幸せ本当に私の様な有り難い者はない。こう言う時にもし信心がなかったらと、例えば信心をいただいておる事の、有り難い事がわかり降っても照っても有り難い。幸と言う字は上から読んでも幸、下から読んでも幸と読める。
どういう場合でも幸の感じれる様な信心を、今こそ三本鍬で打ち起こされる時に感じれる様なおかげを頂かなきゃならない。とにかく病気の間が愉快、楽しかったと文男先生が言って居る様な境地がひらけて来なければ。それを分る事が信心だと先ず分からなきゃいけない。日田の高野さんが昨日お届けをされましたのに、丸い石があるその上にハンドルがついておる。で自分が丸い石の上に乗ってハンドルをずっと回すと、沢山の自動車町の中を、自由自在にその乗り回しておる所を頂いたとこう言うのです。
もう結局信心とは有り難くなる稽古だと。事実本当の事が分かればね、お礼を申しあげねばならない事ばっかりなのに、私共が痛いの痒いの、残念だとか情けない、とかと言っておるのであって、本当はお礼を申し上げねばならない事ばかりですから。結構な修行を頂いて有り難い。本当に神様の思いが分かったら、本当に神様すみません有り難うございます。以外には無いことばっかりなのに。私共が言うならば、その腹立ちを感じたり情けないを感じたり、不平不足を思うたりね。
恨みつらみすらが、その中に入って来る様な状態では、信心の稽古とはある。あるけどもそれを有り難いに変えていく、分かっていくと言う信心の基礎が、土台が分からなければならない。もうとにかく信心とは、一切を有り難い有り難いで、自分の心を有り難いと言う事に言うならば頂きまわし、言うならば使いこなせる稽古なんだ。もう信心ちゃ有り難うなる稽古と言う事は、そう言う事だと言う事を、稽古の前の前提として分かっておかなければならんと言う事。
それをどうでしょうか私共は有り難い、有り難いで受けていっておるだろうか。有り難くなくっともだから嘘にでも有り難いと言うていく様な稽古が必要だ。いやそれが本当なんだと分からなければいけないね。次には福岡の富田川さんが頂いておられるます様に「チクワの中にキュウリを刻んで中にいっぱい、詰めてある」ところを頂いた。まあ成程ビールのお肴か何かに、よかろそうですね。それを切ったらチクワの中にキュウリがこうやって入れてある。
例えばおかげ、おかげと言う間は信心は出きんでも、神様がおかげを下さった時代があった。言うならば神様がチクワである。いうなら向う先が所謂レンコン食うて下さる。と言うふうに表現いたしますよね。信心は出来んでも、言うならばおかげを下さった時代、ね。そこの時代を私共が通りこえたら、これから信心を頂いてくれ、力を受けてくれ徳を受けてくれと言う働きが起こってくる。キュリと言う事は御徳と言う事、久しい利というふうにもじったらいいでしょう。
いついつまでもそれこそ一人でに物が出来る程しのお徳を頂くためには、いつまでもチクワだけの信心じゃいかん。その中に久利が詰まった信心でなかならなければならない。だからその辺のところがね、昨日文男先生が申しております様に、すっきりと出来る稽古なんです。出来る出来んは別としてそうだと言う事、本当なものをそこに置いてその本当なものへ向かって、一歩一歩近づいていく。とにかく私は親先生の信心を百パーセント頂きたい、と言う風に文男先生が申しておりましたがね。
それが百パーセントか五十パーセントか、四十パーセントであってもです。それを百パーセントに近づいていくという、表現でお話しておりましたようにね。それがその百パーセント言うなら、あのお月様の満月に向かって、満月にならせて頂く事を精進。もしあなたの心の中に不平があり不足があり、只難儀だけを感じておるならば、その満月が三日月になったり、ある場合は暗闇になってしまう様な事にすらなり兼ねないね。言うならば本当の事は有り難い。
例えそれが病気であっても、病気の中に有り難いものが感じれれて、初めて本当の受け方が出来た時だと言う風にです。出来ませんけれどもそれを焦点にしての、稽古でなからなければならないという。信心の稽古この七十一節は『ここへは信心の稽古をしに来るところ』とこう仰ってある。だからそう言う、いうなら根本的な一つの理念と言った様なものがです、人間がお徳を受けて幸せになっていく、その根本は今三人の方達が頂いておる様なところを、それだと信じて分かってそしてそれを本当にそうだな。
神愛以外にはないなと言う事を分かる時に初めて、どういう場合であってもね、上から読んでも幸下から読んでも幸、と言う様な心の状態が開けて来る。そこんところが焦点でなからなきゃいけない。そう言う稽古を私共が日々させてもらわなきゃならない。『ここへ参って信心の稽古をしておけ』と最後にも、結んでおられます。もう稽古から稽古に終わらせて頂くのであります。
昨日稲垣さんが頂いておられます様に『一心一発』の心が生まれて来る様になる段々。例えば一つの改まりといった様な事でもどうぞ、おかげを頂かなんならんから改まります。こうもいたしますと言うような信心が出来ておっても。神様が本当に氏子の心の中にもこれが言っておるのは一心だと。受けて下さった時にそれこそね、一発でおかげが受けられると言うことなのです。ところが今までの過去の信心を思うてみると、あぁもしますこうもします、改まりもします。と言いながらまた元に戻ってしまう様な。
いわゆる一心では一発のおかげにはならない。本当言うたら腹が決まったらね、一発でおかげは頂くもんだよと言う訳なんです。だからもう稽古した上にも稽古して。いよいよ疑う余地のない神様を信ずる以外にはない。いや神様のおかげを頂かなければもう立ち行かないと言う事実を踏んまえて、私共がそういう稽古に言うならば日々をもうそれこそ、いそいそとした心でその信心の稽古に当る。私共の修行時代の信心の稽古は、確かにいそいそとしたものがあった様に自分で思うんです。
もう本に大坪さんもひどかろうてんなんてん、人から同情を受けるような事は一っつもなかった様に思うんです。信心ちゃ尊いもんだな。もう何か全身にそれがみなぎっておった様な感じがするんです。自分で思うんです。だから言うなら信心のない人でも、私のまぁ言うなら、尾羽打ち枯らした姿の中にいやあ、あの人は只人じゃなかですばい、と言う様なそれから、後から後光がさしよるような人ばい、と言われた時代は、その時分だったと思うんですね。
内容がもう喜びいっぱいだったと言う事なんですよ。だからそう言う稽古そう言う信心を一つ目指してもろうて、それに一歩づつでも近ずかせて頂くと言う事が信心の稽古。参る事拝む事、只お話しを聞く事だけが信心の稽古じゃない。成程参る事拝む事お話しを頂く事なんですけれども、それが身の上に生活の上に現わされて、自分の血肉になっていく稽古を、しなければ本当の稽古をしておると言う事にはならんのです。
そう言ういうならば信心を基礎とさせて頂いて、今度の合楽建設にかけたらどうだろうかと言う風に。昨日十三日会の中で聞いて貰ったんですけれどもね。一つの願目と言うものを神願成就のために置くと言う事。合楽建設と言う事はそう言う風に思うのです。そこからねこれも合楽建設にための言うなら稽古に手立て、というものを電気一つ節電するでも、水道の水に節水をする事でも。
自分の言うならば、今まではあぁこれも無駄、あれも無駄であったと、言った様なものを自分の生活の中に感じさせてもろうて、それこそ「ほしがりません、勝つまでは」で。そう言う、言うならば焦点をですね、生活全般の上において、切り変えていく様な生き方を、一つ一家中でねひとつ考えられたらどうでしょうか。信心の稽古の材料はいっぱいある。そう言う事でも自分の心の中にです。言うならここでは家業の行といわれ、心行と今言われておりますので、心行が出来とらんとそれが出来んのです。
本当に家業の行を、行と只儲かる事だけのためとか、言うだけの家業ではやはりそこに我情がつきます。合楽のいうなら建設が始まると同時に、私共の言うなら心の建設の基礎も土台も、先ずここ数日のうちに基礎土台が出来るんだそうですが、それに合わせて私共の信心の基礎を、今日皆さんに聞いて頂いた様なところを基礎として、そこにうち立てられていく信心を願う。そう言う稽古をされたらどうでしょうかね。
どうぞ。